Mar 04, 2010

フォトフェイシャルの効果

私は長年のにきびやにきび傷跡に悩まされていました。クリニックでフォトフェイシャルを行っていたので試してみました。ジェルを塗って、フォトフェイシャルのシステムに合わせてもらったときに、小さなゴム製の軽くはじかれているような感覚と暖かい感じでしたが、痛くても、一週間ほどすると白くなって、とても肌がきれいにしています。
結婚して出産して、気がつけばもうアラフォー世代。子供と昼に外に出る時間が多く、幼稚園ピックアップイベントへの参加など、紫外線、直射日光に当たる機会があまりにも多い毎日。シミ、そばかすが増える条件は確か揃っている。ちょっと高いですが、アンチエイジングケアの基礎化粧品を毎日欠かさず使用しています。なんかシミ、そばかすが気にならないようにして気がします。アンチエイジングケア基礎化粧品、使ってみることですね。
 仙台空港に近い宮城県名取市の北釜地区。東日本大震災当日、ヘリコプターに乗った私が、上空から津波にのみ込まれる瞬間を撮影した場所だ。あの時、地上で何があったのか。暮らしていた人々はどうなったのか。2カ月近くが過ぎた5月初旬、自分の目で確かめようと、写真を手に歩いた。

 仙台市中心部から車で南へ約30分。幹線道路を空港の手前で右にそれると、北釜地区に入る。住宅の多くは津波で流され、周囲にがれきが残る。

 震災前の人口は396人。47人が亡くなり、4人の行方が今も分からない。

 「私はあそこに避難していたんです」。津波に襲われた時、地区の北釜集会所の屋根に避難して助かった農業、高梨仁さん(62)に出会った。私が仙台空港をヘリで飛び立ったころ、4人で屋根に上ったという。

 改めて自分が撮影した約200カットの写真を1枚ずつ拡大してみると、平屋建ての集会所の赤い屋根に、人の姿が確認できた。

 あの日。夕方から雪が降り、屋根の上で震える高梨さんは妻に携帯メールで助けを求めていた。誰もが生きるために懸命だった。空からは気づかなかった現実が確かにそこにあった。【手塚耕一郎】

 ◇夫婦、再建ともに 避難所近く 農業再開

 机や壁が写真で埋め尽くされていた。宮城県名取市北釜地区に津波が押し寄せた時、高梨仁さん(62)ら4人が避難した赤い屋根の北釜集会所には、行方不明者の捜索に当たった自衛官らが流された家々の中から見つけた無数の写真が並べられている。集会所の前でボランティアの学生たちが写真の泥を洗い流していた。

 「津波だー」。震災発生から1時間ほど過ぎた3月11日午後4時前。集会所の周辺で地元の人たちを避難場所の仙台空港に誘導していた高梨さんは、星徳夫さん(56)の叫び声を聞いた。がれきを巻き込んだ黒い大波が目の前まで迫っていた。

 高梨さんは星さんや町内会長の高橋茂信さん(68)らと4人で集会所外壁のはしごを使って屋根によじ登った。水が押し寄せたのはその直後のことだ。男性がもう1人、屋根に登ろうとしたが間に合わず木片につかまったまま流された。津波で破壊された建物の屋根や車が集会所の壁に次々にぶつかってきた。「生きた心地がしなかった」

 その時、高梨さんの妻やよいさん(59)は車で帰宅途中だった。対向車の人に津波が来ると知らされ、Uターンして海と反対方向に逃げた。

 「今集会所の屋根に避難している」「家も車も流された」。夕方になると、携帯電話のメールで夫と連絡を取り合った。「寒くて大変だ」「助けてくれ」。夫は屋根の上からメールでSOSを出している。やよいさんは、救助要請したが警察は混乱状態で取り合ってもらえなかった。警察署に身を寄せて自身の身の安全を確保したが、夜になると携帯電話の電池が切れ、連絡は途絶えた。

 翌12日朝、高梨さんたち4人は股下まで泥につかりながら、歩いて仙台空港に避難していた。そのことを知らないやよいさんは、地元紙の朝刊に掲載された空撮写真に食い入るように見入った。私が北釜地区を上空から撮影し、共同通信が配信した写真だった。

 やよいさんは、夫がいるはずの集会所周辺をルーペで拡大して見たが、紙面に印刷された写真では、夫が写っているのか分からなかった。人づてに夫が無事だと聞いたのは、14日午後。夫婦が再会できたのは16日になってからだった。

 もともと、北釜地区はのどかな田園地帯。畑の中に民家が点在し、約60軒の農家がチンゲンサイやコマツナなどを栽培していた。

 高梨さんは、15年前に農協職員を辞めて専業農家になり、約1ヘクタールの畑で主にチンゲンサイを育てていた。6年前に新築した自宅は津波に耐えたが、1階は水につかり、住めなくなった。ローンが残り、震災3カ月前に250万円で買ったトラクターも流された。

 高梨さん夫婦は今、市立名取二中の避難所で暮らす。畑は全滅したうえ地盤も沈下し、地区の人々の生活基盤は完全に破壊された。「家に戻ると悔しくて涙が出る」。高梨さんは「死んだ方がましだった」と思うことさえあったという。津波で親類が1人亡くなり、74歳になる姉の行方は今も分からない。

 それでも、高梨さん夫婦は、知り合いの家族と一緒に避難所近くの耕作放棄地を耕し、4月中旬からコマツナの栽培を始めた。「みんなで協力してやればできると誰もが思っている」。トラクターや農機具は知り合いのつてで借り集めた。

 4月中旬、地区の住民たちは名取市長に集団移転と移転先での農地の確保を陳情した。今月末には、仮設住宅の入居も始まる。復興の足音が、遠くから少しずつ聞こえてきている。

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