Feb 27, 2010

好きな時間に行く会員制リゾート

一時会員制リゾートというのが流行です。この会員制リゾートというのは、年会費などを払えば好きな時には、リゾートに行って、宿泊施設などを無料で利用できるということです。これは、別荘などのように好きな時間に行くことができるという利点もあります。ただし、年会費が高価なので、会員制リゾートを利用する人々は余裕のような人だと思います。
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 半世紀ぶりに所在が判明した「広島大仏」(阿弥陀如来坐像<あみだにょらいざぞう>、高さ約4メートル、木製)が安置されている奈良県安堵(あんど)町の極楽寺では6日、原爆犠牲者の追悼式が営まれた。田中全義(ぜんぎ)住職(25)や広島の出身者ら約70人が冥福を祈り、平和な世の中を願った。

 広島大仏は制作年代や作者が不明。戦後は広島の爆心地近くに安置され、信仰を集めていた。追悼式は境内の「大仏殿」であり、広島に原爆投下があった午前8時15分に合わせて黙とうした。田中住職は「日本中が手を結び、平和を祈念したい」と話した。【高瀬浩平】

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【響の軌跡】(20)

 京都市交響楽団で第2バイオリン首席奏者を長く務めた玉井洋子(ひろこ)は昭和35年、京都市交響楽団の入団試験を受ける直前に恩師の紹介で、当時関西ですでにバイオリン教師として頭角を現していた東儀祐二に、試験の課題曲、ブルッフのバイオリン協奏曲を見てもらった。

 レッスンが終わると東儀は「ママ、ママ」と、かつて京響の第2コンサートマスターを務めていた妻の幸を呼び出し、「今の京響のコンマスって誰だったっけ」と、試験前の緊張をほぐそうとしたという。

 「初対面でしたが、親切にしていただきました」と玉井は振り返る。

 話はそれるが、玉井の入団試験に至る過程が面白い。非公式な“第一次試験”が行われたのは京響の地方公演が行われた旅先だったという。

 当時、島根大学(島根県松江市)でバイオリンを学んでいた玉井はある日、松江公演に訪れていた京都市交響楽団の常任指揮者、カール・チェリウスとオーケストラメンバーが宿泊していた旅館の和室大広間でバイオリンの腕前を披露した。チェリウスは座布団を何枚も高く重ねてその上に座って玉井のバイオリンを聞いたという。そして京都での正式な入団試験の日程を言い渡されて試験に臨んだのだ。

 玉井は試験に無事合格するが、チェリウスはよほど松江の旅館での試験が印象に残ったのか、入団後も玉井を名指しするときは「松江の人」と呼んでいたという。

 その後、玉井は団内でバイオリニストの宣昭(のぶあき)と結婚。やがて生まれた長女にバイオリンのレッスンを受けさせることとなり東儀と再会を果たす。

 長女は2歳のころから家に置いてあったバイオリンを自然と手にして、特に手ほどきもしていないのに音を作り、玉井と夫が京響の演奏旅行から帰ってくると、迎えに出た玄関で童謡をバイオリンで弾いて驚かせた。

 そこで長女が4歳になったころ、本格的に習わせることに。

 「関西で、良いバイオリンの先生といえば東儀先生でしたから」と、東儀の門をたたくことにした。

 「ただ、すでに生徒さんをたくさんお抱えで、なかなか生徒としてとってもらえない状況でした。ですから京響の楽員仲間からも頼んでもらってようやく入門しました」

 そうやって長女は自己流だったバイオリンの奏法を祐二に一から教えてもらうことになる。

 「東儀先生のことを素直に聞いて練習していました。レッスンでは東儀先生は自らピアノを弾いて、幼い娘に教えてくださっていました」

 その長女とは、後に国際コンクール入賞を重ね、国際的バイオリニストとして活躍している東京芸大准教授の玉井菜採(なつみ)。4年間東儀の下でバイオリンの基本を学んだ。菜採は東儀の弟子でつくる「いずみ会」の発表会にも幼稚園時代から出席した。同年代には五嶋みどりもいて、プロのバイオリニストとしてオーケストラで活躍している玉井も夫もその発表会のレベルの高さに圧倒されたという。

 長女の菜採はその後、ヨーロッパから帰国したばかりの小国英樹に師事することになり東儀門下を離れるが、玉井は東儀とまた別の場所で再会する。

 京都市交響楽団が東儀の二女、雪子をソリストに招いてグラズノフのバイオリン協奏曲を演奏したときのこと。

 「先生、おめでとうございます」と駆け寄ってあいさつをすると、東儀は笑顔で応えた。

 「教室では見たことのない、それまでで一番うれしそうな笑顔でした。東儀先生というと、そのときのお顔が一番印象に残っているんですよ」

 “親の顔”がこぼれた、数少ない証言である。東儀が亡くなったのはそれからわずか数カ月後のことだった。(安田奈緒美)

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